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nerumae

ほぼねるまえに更新してます 読んだ本/聴いた音楽/マラソンみたいに続けていきたいふつうの日記

描写とイデアと「自然を寫す文章」

読書_小説・随筆

http://www.flickr.com/photos/28145073@N08/18594191701
photo by Moyan_Brenn


秋の夜中に青空文庫。寝る前5分くらいで読める夏目漱石のエッセイ。
情景描写についての漱石の姿勢が書かれている。

一寸一刷毛でよいからその風景の中心になる部分を、すツと匠みになすつたやうなものが非常に面白い、目に浮ぶやうに見える。五月雨の景にしろ、月夜の景にしろ、その中の主要なる部分――というよりは中心點を讀者に示して、それで非常に面白味があるといふやうに書くのは、文學者の手際であらふとおもふ。


漱石の描写観が気になったのは、彼の短編「夢十夜」第六夜がずっと頭のなかに残っているからだ。


その物語では、護国寺で木仏を彫る運慶に倣って、漱石も木から仁王を彫り出そうとする。けれども、「あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのをのみと槌の力で掘り出す」運慶に対して、漱石は彫っても彫ってもうまくいかない。そのうちに彼は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」と悟る。


漱石は俳句詠みでもあるんだけど、上記2作を読むと、俳句にしろ文章にしろ、その情景を表す「最適解」、その情景のイデアが存在する、と確信していたんだと思う。短歌を詠んで(読んで)いても、「ああここにはこの語彙が最適解だ、これでなければならない」というものを感じる。きっと小説なんかもっと長い文章もそうなんだろう。余計な贅肉をぶよぶよとつけてはならない、かといって、真芯をとらえていない歌は本末転倒だ。もっというと、自らが文章を構築するのではなく、その情景、その物語の本質、「中心點(点)」から「書かされる」歌がたぶん、よい歌だ。自分の外に軸がある感じ。
うーん、なんだかいってることが観念的ですね。

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