Name your sorrow
雨。一日家にいてもう何者にもなりたくない。
きのう短歌の目で「喜怒哀楽とはにんげんの感情を説明伝達の便宜上おおざっぱに分類したもの」と自分で書いて、あっとなった。自分のなかにもにょもにょとあったものをいびつながらもかたちにして出力できるのは気持ちがいい。
毒親って呼ばないで、というタイトルのエントリを読んだ。
たぶん私の親は巷の定義に照らせば毒親にあたる。けれども私自身は、客観的によろしくないことをされたナアとは思うけれども、親を「毒親」と思ったこともないし、エントリ主さんと同様毒親と呼びたいとも思わない。親は親なりに当時私に育児や教育をできない、自分より弱者を支配下におきたいという精神状況であったことを今なら理解できる。それが腑に落ちるかは別であるけども。
ほかの、いわゆる「毒親」をもつ人たちはどう思っているんだろう。私にとっては、親からされた仕打ちや親への憎しみ、それと対をなすように、それでも親から時おりかわいがられた記憶、親のことを愛したい、親から愛されたいといった長年の渇望を、「毒親だったからしょうがないよね」とばっさり切り捨てられるものではない。まして赤の他人になど切り捨てられたくはない。
喜怒哀楽は説明便宜上の分類で、そのさらに奥に私たちは微細な感情の織りをもつ。外部からの分類の暴力をきらうのであれば、またみずからを分類にあてはめて生きるという盲目的生活をしたくないなら、みずからその感情を書きだすことが必要だ。どんな手法でもいい。できればいくつかの手法を知っておいたほうがいい。書きだすことであなたはあなたの記憶を、感情を定義し、名前をつけることができる。これらは自分にいいきかせています。