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参加いたします。虚無透さん企画運営おつかれさまでございます。
よろしくお願いします。
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お題「魚」
「旬はずれ」
最後の魚の仕込みを終えて、
「もう七年か」
ふと顔をあげると、こじんまりした板場の斜め向い、小上がりに活けてある一輪挿しの紅葉が目についた。そういえばちょうど七年前のあの頃も、紅が最も映える、晩秋の夜だった、と定一は思った。
金沢にある「こ
「定一さん、まだやってるの」
ふいに暗がりから発せられた小夜子の声に、定一は右手に構えた出刃包丁をあやうく落とすところであった。
「なんだ、お小夜さんか。心の臓が止まるかと思った」
定一は
「真鯛ね」
「へエ。能登からいい定置もんが届いたんで、今晩のうちに仕込んでおこうと」
「捌くところを見ていてもいい?」
風邪をひきますよ、といおうとしたが、定一は小夜子の父親譲りの勝気と頑固を思い返し、ことばを呑んだ。小夜子の「見てもいい」は、「見るわよ」の意なのだ。
二貫弱の真鯛を、左頭に俎板に載せる。鱗はとってある。
片方の身の皮を剥ぐ。ぱらりと塩を振って、両面を昆布でしっかりとくるむ。
(よし)
定一は昆布でくるみおわった鯛の身にそっと指先を置き、心の中でとなえる。
「おとっつあんたら、また定一さんに時期はずれの魚ばかり切らせて。今時期だったら鯖か何かでしょう」
ガラス戸にしゃがんでむくれた小夜子が、定一の手が落ち着いたのを見計らっていう。ことばの上では父親への不満だったが、その不満は、定一にも向けられていることが目線でわかった。見てもいい、という殊勝な物言いをしたものの、作業のあいだじゅうまるで小夜子などはなからそこにいないかのように集中する定一が、その普段の朴念仁とはまるで別人のような手際の良さが、小夜子には面白くないのであった。
「まあ、そうですね。でも俺は、こういう旬はずれの魚を扱うほうが好きですから」定一は切った身を冷蔵庫にしまいながら、小夜子をなだめる。
「たしかに鯛は春先が一番美味い。言っちまえば、だれが
何百回、何千回と、金助の横で耳にした文言だ。定一は金助の手際を思い返すように、自分に言い聞かせるように口にする。
「おとっつあんとしゃべることまで同ンなじになって」そういうと小夜子はたた、と板場へ駆け降り、そのままの勢いでどしんと定一の胸元に飛び込んだ。
「魚にばっかり情けをかけて。あたしもいっそ、定一さんにさばいてもらいたい」
突然のことに、すっかり忘れていた定一の胸の鐘がもう一度鳴りだす。棒立ちになったまま、お小夜さん、寝間が汚れますから、生臭くなりますから、とひっぺがそうとして彼女の肩を掴んだとき、定一は小夜子の肩が小刻みに震えていることに気づいた。
「お小夜さん?」
小夜子はこぶしをつくり、定一の胸をどんとひとつ叩いた。
「定一さん、どうしてあたしをもらってくれないの。どうしておとっつあんに掛け合ってくれないの。あたしが定一さんのことを小さい頃から好いていることも、定一さんがあたしを好いてくれていることも、おたがいずっと前からわかっているのに」
そういわれて、定一の身体の中を一瞬、堪え難い衝動が走った。この肩に置いた両の手を小夜子の背にまわしたい。ぐいとからだじゅうに抱きとめたい。そうだ、うんそうだ、お小夜。ずっと好きだった。そう胸の内を白状してしまえればどんなに楽か。
「おとっつあんが、縁談をもらってきたの」
小夜子は定一の胸にしがみつき、しゃくりあげたまま、ぼそりと言った。
「常連の、呉服屋の息子が、あたしを見初めたんですって。いままで何度も何度も縁談を断ってきたけど、今度ばかりはもうだめだ、店の、『こ金』のためだ、受けてくれって、おとっつあんが頭を下げて」
定一の小夜子の肩から浮かせた手が凍りついた。
ああ、そうだった。どうして忘れていたんだろう。お小夜は美しいのだ。誰から見ても。
一代上がりとはいえ大店の、こんなにも凛と美しい娘に二十になるまで縁談の話がこないほうがおかしい。小夜子は自分のことを想って申し出を蹴っていたのだ。けれども、それが重なるごとにどんどん「こ金」の立場は悪くなるだろう。それに、いつまでたっても二番手、三番手しか切らせてもらえない、うだつの上がらない板前の自分のもとに嫁いだところで、一体小夜子になんの幸せがあるというのか。この小夜子の握りしめたこぶしの内側にある、白魚のような指先に、苦労を負わせていいほどの甲斐性は自分にあるのか。
育ててくれた親方へ、恩を仇で返すような真似はできない。裏切ることはできない。
定一はしがみつき泣きじゃくる小夜子を胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。
「定一さん」
小夜子が目を腫らして定一の顔を見上げたとき、定一はぐいと小夜子の肩をつかみ、一気に引き剥がした。そして板場の足元に頭を下げたまま、言った。お小夜。お小夜、お小夜。
「お嬢さん、お幸せに」
小夜子の大きな目はさらに大きく見開かれ、定一をとらえた。やがて、両のまぶたが一度ゆっくりと閉じられたのち、定一の作務衣にしがみついていた手が力なくほどかれた。そのまま小夜子は足を引きずるように、板場の入り口まで歩いた。
定一は自分の足元に目を落としたまま、ピシャリとガラス戸が閉められる音、キシ、キシと小夜子が廊下を戻る音だけを聴いていた。
その夜かぎり、「こ金」の板場で、定一と小夜子が顔を合わせることは、二度となかった。
――あれから七年。
今でも自分の選択は間違っていなかった、そう定一は思う。手を洗って前掛けを取っていると、店と家続きになっている奥の戸ががたり、と開いた。
「あなた、まだやってるの」
小夜子が顔をだした。寝間着に肩掛けをしている。定一は小夜子のほうへ顔をむけると、前掛けを置いてゆっくりとそちらへ向かった。
七年前のあの夜。定一は小夜子との一生を、夫婦ではなく、親方の娘と板前で終えることを望んだ。その後、小夜子が父親の金助に縁談をすすめてもよいと伝えた、という噂話までは我慢して聞いていられた。ところがそれからすぐに、小夜子が床に臥せて飲むものも食うものもとらず、料亭の娘なのに飢え死にしそうだという兄弟子や女中たちの話に定一は居てもたってもいられず、臥せっている小夜子を半ば連れ去るようにして、「こ金」を出たのだ。
それから七年。金沢を出て、定一はがむしゃらに働いた。自分でもこんな力が出るものか、そう思うくらいに働いた。
十五の時から使う当てもなかった貯金をはたいて、小さな小料理屋「魚さだ」を構え、能登の外れでひっそりと、小夜子と二人営みはじめた。
十五年の「こ金」での下積みと、小夜子の応対のおかげで、「魚さだ」は「朴訥ながらも実直、いつ行っても滋味のある魚料理を食わせてくれる店」として、しだいに界隈から受け入れられるようになった。
「もう七年にもなるんだな。あっという間だ」定一は小夜子の隣に腰をおろしてつぶやいた。
「あの時は、迎えにきてくれなけりゃ、本当に飢え死にしてやるつもりでいたわ」小夜子はふふ、と笑い、口元に手をあて、戸の奥の寝床をふりかえった。寝床では、数え五つになる娘の美代子がすやすやと寝息を立てていた。
定一は小夜子の手をとった。指先が赤く、ひびわれ、ささくれていた。七年分の荒れだった。
「結局、苦労をかけてしまったな」
「生きてるんだもの、苦労くらいするわ」小夜子が定一の肩に、こつん、と頭をのせた。
明日は正月ぶりに店を休めて、金沢の「こ金」へ、金助のもとへゆく。「魚さだ」の評判が金助の耳にも入り、先日手紙が届いたのだ。文面には、「家族で孫の顔を見せにくるように」とあった。
(了)
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