喫茶店でさいごの接吻
小雨。夕方時間ができたので、閉店をむかえる喫茶店にすべりこみで入ることができた。
店内は私と同じ思惑の人たちで満員だった。
黒皮張りの深く沈むソファに腰掛け、せっかくなのでショコラのケーキセットを、と頼んだら、
「もうケーキはぜんぶ出ちゃったの、ごめんなさいね」とマスターの姉。
古い内装に不釣合いなプロ仕様のスピーカーからは明るいジャズが流れていた。
いかにも「最後ですぅ」みたいな感傷的なダサい選曲じゃないのが、ああ、マスターほんとにセンスよくて良かった、と思った。
マスターの好きなグッズグズのダヴも聴きたかった。
この喫茶店には指で数えるほどしか来てない。
もっと早く入ってみればよかった、と思う気持ちと、きっと早くに知ってもこの店の良さはまだわからなかっただろう、と思う気持ち。
音楽の良さもコーヒーの味も、なんとなくわかりかけてきたのは三十路に入ってからのこと。
コーヒーカップにそうっと唇を押しあてて、すぐになくなってしまわないよう、ちょっとずつ傾ける。
この店のカップのふちは厚く、ぽってりしている。
お酒もそうだけれども、器の飲みくちで味わいが変わるというのも最近になって初めて知ったことだ。
唇にあたる面積が広くまるいと、味もまろやかに優しく感じるんだとか。
友人のザイケくんは「キスしてるみたいだ」と言っていた。
何度かの接吻をして、マスターとちょこっと話もして、店を出た。
閉店後すぐに取り壊しがはじまり、コンビニができるそうだ。