「わかる」と「わからない」のすきまを埋めていく
彼女がすげー怖い・・・ 彼女がスーパーに買い物に行っているとき、 い..
拝読しました。
じぶんの性別が女なので、女性側の気持ちに寄り気味で読んじゃったなあ。
とても良かったです。
男が簡単に「気持ちわるい」と吐き捨てている感じとか、女が実は男の行動はじめ2人の関係を俯瞰していたところとか、男の吐き捨てを受けて女が(おそらくは)絶望しながら、敬語で返答しているところとか。
これを受けて思い出したのがよしながふみ先生の短篇集「それをいったらおしまいよ」内の
「ある5月」というストーリー。
ここでもまた、男と女の文化的背景の違いから、愛情から他人に対する絶望への急降下を味わうことができます。
「ある5月」ざくっとあらすじ
妻を亡くしたばかりの初老の大学教授は、ふと立ち寄った小料理屋の女幸子と再婚することに。ところが2人の生きてきた環境の違いから、幸子の「土下座で許しをこう」「煙草の灰を両手で受けようとする(しかも教授の担当ゼミ生の前で)」といった受け入れがたい行動に不審といらだちがつのり、2人はやがて別れに。
ラストシーンでの「すまない」と謝る教授に対し、「いいのよ あなたが悪いんじゃないもの」と諦観を表す幸子。
私はこの表情を忘れることができないだろうし、きっと上記の増田文学の彼女も同じ表情をしていたんじゃないかなと思います。
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中島義道先生がなにかの本で(またはtwitterBOTで見かけたのかもしれない)、
「人と人との間において『わかりあえる』というのは幻想である。『ここまではわかった』と『ここからはわからない』の間を延々を埋めていく作業が現実にはあり、それは対話によってしかなされない」
的なことを言っていた気がします。
増田文学やよしなが作品はじめ有象無象の物語の数々、ことに男女の仲を見るにつけ、人はそれでも「わかりあえる」というイデアを追い求めずにはいられないんだなあと嘆息してしまいます。
それならばせめて中島先生の言うとおりに、「私たちはわかりあえない」といったん前向きに諦め、それから「わかる」と「わからない」のすきまをぷちぷちと埋めていく姿勢を忘れずにいたい、と思います。
それは対話によって、ことばによって。
だいじょうぶ。愛しているよ。ありがとう。
おまけ
増田の彼女に届くかわからないけど
自分の至らないところを治そうと行ってきたことは間違ってないし、いつかそのことに「ありがとう」と感謝してくれる素敵な男性が現れると思います。
だからまあ、元気だして。