大学時代をもっと浅薄に生きればよかった
抹茶です。
先日大学時代の同期が3人くらい私の家から近い所に宿を借りてプチ同窓会をするというのでごはん会にだけお邪魔してきた。
大学時代はあいつらリア充わしルサンチみたいな見えない壁を自分の脳内だけで創りあげてきたので、正直行くまでは気乗りはしなかったんだけど、帰りは端的に「あ、行ってよかった」と思えた。
そして私がいかに4年間その日その日を生きないで過ごしてきたかが身に染みた。
Carpe Diem
慶應義塾大大学教授で経済評論なんかもしてる岸博幸さん、そう顔の長い人、の座右の銘が「Carpe Diem(カーペ ディエム)」だそうで、サイン色紙にもこのメッセージを書くのだとか。
ラテン語で意味は「いまを生きろ」ってことらしい。
大学時代の記憶がほとんどなかった
ごはん会で誘ってくれた友人たちが「あのとき後藤くんが酒浴びたまま失踪してね〜」「あの飲み会抹茶さんいたっけ?」
などと大学時代の思い出話に花を咲かせているのだけど、私はそのほとんどが記憶にない。
大学入学前に家庭環境に少し問題があって、まあざくっと言うと
父「スマン!せっかく合格してくれたけど、うちにはやっぱりお前を大学に通わせる金、ない!」
私「なにをぉーー!?拾ったわんこで走りだしキシむわんこの上で優しさ持ち寄るぞこのヤロー!」
で家出して一人暮らしみたいな感じ。
そんなもんだから「とにかくお金貯めて遠くに就職しないとこの親から一生束縛されるし地元でニートでもマイルドヤンキーにすらなれないぞ」という背水の陣で大学4年間はバイトと勉強に明け暮れていた。
そんな中自宅通学している市内の同期たちはサークルや飲み会で和気あいあいと親睦を深めていたみたいで、私はたぶんそれを傍からみたら白面の者みたいな目でねめつけていたと思う。
「わたしはあなたたちとは違うんです」という酸っぱい葡萄もしくは福田理論でガッチガチに自分を固めて、弱音を吐きたい自分や右も左もわからない一人暮らしの大学生活と、あとたった数年後で社会人にならなければいけないという不安から目を逸らしていた気がする。 aaってどうやって貼るんですか。
無駄だけど独りの時間は必要だった
今考えれば、親や周りとうまく折り合いをつけて妥協できるところは妥協したほうがよほど楽しめたことはわかる。
飲み会翌日に講義を遅刻する友人たちにも傍目にはわからない悩みや社会への不安があったりしたんだろう。
それらを共有したり、もっと弱音を吐いてダメ出しもアドバイスも他人からの意見も聞き入れる道もあったと思う。
1年の頃から4年のことを考えてシラバスを組み立てるけれども、それとは別に友人たちとのつきあいを1日1日楽しんでも良かったんじゃないかなあと振り返って遠い目をする。
あのころ近視と遠視を使い分けられるほど、まだ器用ではなかった。
やってしまった後悔よりも、やらなかった後悔のほうがジワジワ響いてくる。
でもどんなに悔やんでもその時間は二度と戻ってこないし、その時の私には、親や周りをねたみ恨むコールタールみたいな自分を見つめる時間、嫌いなものを嫌いと言語化する時間、将来への不安に吐きそうになる独りの時間、これらを通り過ぎることがどうしても必要だったのだ。
どんなに周りには不要に見えても、無駄な時間だったとしても。
いつか他の同期たちと逢うことがあって、思い出話になっても、「いや実はあのときこんな感じでさ〜」とさらっと言えるように今ならなったと思う。もう一度自然に友人関係を築くことができたらいいなと思う。
あとこういうなんでもない日々の日記をつけて、記憶を強化させとかないとなーとも思った。
そうするとやっぱはてなじゃないんですかね。