「半分ほんとで半分虚構」
抹茶です。
談志の落語に相変わらずどっぷりハマって聴いては笑っている。
この人はだんだん本編よりもまくらがどんどん長くなっているのだけれども、そのまくらで現代にあふれているだいたいの問題に言及しスパっと言い捨ててるのが気持ちよくてしょうがない。
たとえばブログ界隈での「表現者はより読者フレンドリーに書くべきでお客はつねに神様なのか」というトピックとか。
http://bulk.co.jp/bloghomme/nogutaku/161414071
このあたりは談志が「観客が噺家に気ぃ遣わせんじゃねえ!」と一刀両断してて吹いた。
まあもちろんこの人は自分自身の場合のみで、半分ジョークでしょうけどもね。
リンク先の人には当てはまらないです。
で、その中で、談志が同様に「すべてこの世界は半分ほんとで半分ウソなんだよ、なんでもマジメに受け取るんじゃねえ」みたいな持論を言ってました。そのことばである友人のことを思い出したので、その娘のことを書きます。
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「アヤちゃん」という源氏名の若菜ちゃん
大学のときの仲良くしていた同期で若菜ちゃんという娘がいて、「アヤ」という名前でキャバクラに勤めていた。
私の周りに寄って残る人は、片親だとか父がDVをふるうとか、そういう家族構成に少しの陰をもっている娘が多くて、若菜ちゃんもご多分に漏れずそうだった。
安田美沙子の背を削って、よりぽやんとさせた感じで、「この娘だいじょうぶか」と、この調子でキャバクラなんて、男に穴ボコにされてるんじゃないのと心配したが、聞いたら店でご指名1位の同伴1位というからびっくりした。
たしかに可愛いけどそこまでやり手な感じにも見えないし。
キャバクラってどんな感じなのと聞くと若菜ちゃんは、「なんかねえ、全部半分ほんとで半分虚構だと思ってる」と言った。
最初のうちは慣れなくてお客のいうことをいちいちまっすぐに捉えていたけれど、そのうちに「愛してるよ」という口説き文句も、「死ねブス」という罵倒も、大量に浴びるうちに「ああそういうものなんだろうなあ」と体を透過する何かのように思えてきたと。
きっといろんな人がアヤちゃんに愛のことばをもって近寄っただろうし、彼女にのらりくらりとかわされてそのまま去る人もいれば、酔った勢いで罵詈雑言を投げつける人もいる。
でもそのほとんどが、だいたい、大体いっしょのフレーズなのだと言う。
「だから、慣れちゃった」
ほどなくして若菜ちゃんは「他にやりたいことがあるから」といって大学を辞めて郷里にもどった。
慣れることがいいのかどうかわからないけど、そもそも夜の店とは虚構を売る場所なのだし、よくよく考えたら「愛してる」も「死ね」もそのとき本当の本当に言った本人がそう思っていたのかなんて、素面だとしても時間がすぎてしまえば本人ですら定かでない。
箱の中の猫が生きていても死んでいてもどっちでも、大体が私たちにとってどうでもいいことだ。
今思えば彼女のキャバクラ勤めも生活費や授業料が足りないんじゃなくて、もともと「男が放っておけない女」という自分の性質と、それをお金にかえられることを感覚的にわかっていたんだろうと思う。
彼女の水は大学じゃなくてそちらにあったんだと思う。
それから私もいろいろあって、「半分ほんとで半分虚構」がなんとなくわかるようになったけれども、でもそれが世の中を悟るってことなのか、世界に対する痛覚を失ってしまった、寂しいことなのか、今いちまだよくわかっていない。