グロテスクといわれて嬉しい
お題で嬉しかった言葉というのがあったので「あっこれを書こう」と思ったんだけど、もうお題期限がすぎていたようだ。世の中の流れが早過ぎる。
前回の短編小説のつどい「のべらっくす」で書いたお話で、id:kkzy9さんから下記のような感想をいただいてとても嬉しかった。
正直蓮コラを思い出してグロテスクだなあと思っていました。でもそういう空気は全く流れていない。少しづつ暖かくなる季節と、それに抗うように先に満開になってしまう桜。現実から目を背けたい季節です。
あらすじをざくっというと、ある感情をキーワードにからだから桜が生えてきてしまった若者と、その幼なじみの少女の友情とも恋愛ともつかない間柄、という非常にぼやけた話。
振り返ると描写次第でもっとただのきれいな話にもできたと思う。今回はグロを意識的に避けようとしていたのに。
口のまわりから髭代わりに生えてくるとか、よりグロテスクで生生しい描写にする選択肢もかすかに浮かんだのだけれど、なんだかそんな体力がなくてやめた。
やっぱり生きることは本来グロテスクだと思う。マトリックスのエージェント・スミスの言葉を思い出す。うろ覚えだけどたしか彼はネオ(アンダーソン)の顔をつかんでこういった。「この世界は臭くてベトベトして吐き気がする」私もほんとにそう思う。
ネオが目覚めるシーンを思い出す。人工羊水のドロドロとからだにまとわりつく溶液のなかで肺呼吸の息苦しさに飛び起き、延髄のプラグを抜く。とても痛々しい。外には孤独と絶望だ。
そんな物理的な話以上に、主体性を取り戻して生きるとか自分と他人の差異を受け入れて生きること、自分のいびつさを受け入れるという作業なんかは巷でいわれている以上にグロテスクで生々しくておそろしい行為だと思う。でもきっと私がそれをまだできていなくて、けれど必要としているから、何度も書いちゃうんだろう。そういえば他に書いた話もみんなそんな話だ。
生きることの美しさを書くかグロテスクな部分を書くかはその人の嗜好で、私はかさぶたとか傷口とか見ちゃうほう。なので今回みたいにそんなに意図したつもりはなくてもそう見てもらうと「あ、やっぱそうなんだな」と嬉しい。自覚していなかった自分の輪郭をつきつけられたようだ。
それにしてもどれだけお題といいネタといいどれだけいまさら感なのか。
世の中の流れが早過ぎるのが悪い。