蓮画展を観に
雨。車でマスターの個展を観に行った。マスターというのは以前書いた「喫茶店で最後の接吻」の喫茶店のマスターだ。以下、記憶の一部を。
マスターはもともと画家で、海外で常設展なども開いたことがある。喫茶店は彼の姉のもので、継いだのではなく手伝っていたのだろう。つまり言いたいのは、マスターは喫茶店をしなくても食っていけるくらいの筆の腕があったということだ。
素晴らしかった。
「蓮画展」のとおり、描かれている油画はほんとうに蓮しかない。
にもかかわらず、一作一作観ていて飽きない。花弁の一枚一枚が南国みたいな力強く明るい光に透かされ、その脈を露わにし、生命を讃える。
とくに大判サイズのもの(サイズの呼び方がわからない)は観ていて気持ちがいい。なんというか、ある距離に入ると「蓮にとりこまれる」スポットがある気がした。
マスターの画は写実的といえばいいのか、筆跡をいっさい残さずまるで写真のように描かれている。けれど彼はそう言われるのが不本意なようだ。
「みんな『写真みたい』っていうけど、写真じゃないんだよね。実際にはこんな色や光は出ないし。記憶の再構成?でもない。感じたものをそのまま描いてる」
「描いてて気持ちいいよ。全部気持ちいいから描いてる。気持ちよく描いてるから気持ちいい画になる」
「こうしてる間にも早く帰って描きたいよ。個展やってる間は搬送したりここに居なきゃいけなかったりで描けないでしょ」
何をどうやったらそんな風にものを見、出力できるのかあれこれ質問する私に、マスターはもどかしそうに独特のことばで表現する。そして「つまりこういうことですか?」と意訳しようとする私のことば全てに違和感を表す。
そりゃそうか、他人のことばでリプレイスできるようなものなら画にする必要がない。
そして、ああ、「こうしている間にも早く帰って描きたい」というマスターのことばを聞いたとき、私もその気持ちを書きたいと震えた。その愉悦の鱗片を味わいたい!